貞観堂

貞観堂内について

上段之間(望陽台)

上段之間(望陽台)

 貞観堂には多くの部屋がありますが、中でも高貴な方を迎えるところとして望陽台があります。 四枚立の襖「涛華」の絵は、岩駒とその弟子によって描かれました。 また、欄間の鷹は、菊池容斎によって描かれ、床脇には狩野探信の絵があります。
 台下の手水鉢周囲には、佐渡産の赤玉がふんだんに使われ、地域色を豊かにしています。

二之間(容斎之間)

二之間(容斎之間)

 勤皇家として有名な菊池容斎(天明8年(1788年)  生まれ)は、孝明天皇より日本画士の号を賜るほどでありました。名を武保といい、歴史故実に深く、幕末・明治の画家、歴史画の大家であるといわれています。 しかし、その著書「前賢故実」が幕府の忌避にふれ、51歳ころ雲水無尽と変名して高柳に滞在し、坪野の広済寺にかくまわれておりましたが、八代 亀石翁、九代 哲斎翁と親交があり、貞観園に多くの作品を残しました。この部屋の襖「洛外嵐山」の通絵は大作であるといわれています。

三之間(仙桃之間)

三之間(仙桃之間)

 正面左の四枚の大襖は、金地に極彩色の名画で、狩野派の筆致ではないかといわれています。 この間に飾られてある古紫壇の大卓は、明治11年9月の明治天皇北陸御巡幸の時、鯨波御野立所においてご使用になられました。 当時この大卓を人肩にて南鯖石小清水峠を越え柏崎まで運ばれたと伝えられています。
 また、床の間の掛け軸は園名『貞観』の命名者 藍澤南城による808字の貞観堂号記があります。

写能坂について

 貞観園の入口の坂を写能坂といいます。 写能坂の呼び名は、久能山からとったもので、抱月翁の道友天海禅師の設計といわれています。 十代 抱月翁の還暦を祝して、坂の開削工事が行われました。
 貞観園の入口に「越後名所 貞観園 観覧応需」の標石がありますが、これは昭和6年に建てられました。 篆刻の名匠 楠瀬日年氏が漢代の拓本から選んだものだといいます。 この右に花崗の大理石があり「名勝 貞観園」の五文字を正面にし、側面に「史蹟名勝天然記念物保存法」により昭和12年6月「文部大臣指定」と刻まれています。唐代李陽水の「三墳之碑」から抽出された篆字で、筆者は寒山寺の山田一止道人、書き上げるに1ヶ月を要したといいます。
 開道の碑は、明治43年に県道岡野町線、松之山線、十日町線の三線開削に当たり各沿道村会の決議により建立されました。

娥眉山下橋標木

ダミーイメージ
 1825年(文政8年)12月、刈羽郡宮川の浜に漂着した唐土の標木といわれ、鈴木牧之の「北越雪譜」に図で報じられたほど話題になりました。 高さ2.6m周り88cm、柱身に「娥眉山下橋」の五文字が刻まれており、これを拾った漁夫より藩主堀候「十四代近江守直哉」に献上され、のち江戸に運ばれ評判となったといわれます。 後年、戊辰の役に九代 哲斎翁が藩主堀右京亮より拝領し、現在に至っています。またこの標木を伝え聞いた良寛和尚は、下記の七言絶詩を詠んでいます。
「蛾眉山下の橋杭に題す」知らず落成いずれの年代ぞ 書法遒美にしてかつ清新 分明なり我眉山下の橋 流れ寄る日本宮川の浜