八代当主 亀石翁、九代当主 哲斎翁の時、小堀遠州の手法を取り入れ、桂離宮の模築となり、利休・両阿弥の風情を参酌するようになりました。八代当主 亀石翁は、松村宗悦と交友があり、次第に造園の趣味が深まって行きました。また、京洛との交わりの中で、茶道の玄々斉等と交友するようになりました。
八代当主 亀石翁の弟は、塩沢の富商で「北越雪譜」の著者鈴木牧之翁の女婿であり、牧之翁の居宅「秋月庵」の庭を造るため、幕府の庭師九段仁右衛門・藤井友之進の二人を招きました。その折、両氏は岡野町に数ヶ月滞在し村山家の作庭にあたりこの名園の基礎を成しました。
また、園内にはスギゴケやジャゴケなどの苔が百数種類を数え、苔で有名な京都の西芳寺などに次いで稀にみる苔の庭です。この立派な苔が育った要因として、霜害の無い立地条件がその第一として挙げられております。
園名『貞観』の二文字は、天保14年、越後の需者 藍澤南城により命名されたものです。その出典は、中国(南朝宋)の詩人 謝康楽 の「述祖徳詩二首」の中の「遺情捨塵物、貞観丘壑美(情を遺れて塵物を捨て、丘壑の美を貞観す)」という詩句の『貞観』が由来となっています。これは「贅沢をしようという心を忘れて、そこで初めて丘や谷の美しさを正しく見ることができる。」という意味です。また、藍澤南城の貞観堂書きは、808字という長い漢文で綴られ、仙桃之間にてご覧いただけます。